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● PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・・●
網代 裕康 氏 (あじろ ゆうこう)
女人高野 大本山 室生寺(奈良県) 副住職
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〔筆名〕中條 裕康(ちゅうじょう ひろやす)
<現職>
真言宗室生寺派 大本山 室生寺(奈良県宇陀市)副住職、責任役員。
同 蓮華寺(東京都杉並区)副住職。
<学歴>
大正大学大学院修士課程修了(1982)仏教学専攻。
東方学院(東大名誉教授・故中村元博士設立)にて「反密教学」の著者、
津田眞一博士(国際仏教学大学院大学教授)に師事(1988-2008)。
<研究分野>
インド密教(主に「大日経」)、原始仏教(パーリ語原典)。
<受賞歴>
大正大学学長賞(1982)
<主な加入学会>
日本印度学仏教学会、仏教文化学会、東方研究会、豊山教学振興会。
室生寺ホームページ http://www.murouji.or.jp/
仏教が日本に伝えられて千四百七十一年、私たちは古くから仏教に接していながら、ひとたび「仏教ってどんな教えですか?」と問われると、たぶん多くの人はその返答に困ってしまうのではないでしょうか。実はブッダの教え(仏教)とは、一言でいえば副題のとおり「苦悩に打ち克つ智慧と方法」を説く教えです。そしてブッダが困苦して悟られた真理(法)に則るかぎり、喜びや快楽を求めてその欲望を満たそうと生きる世俗の人々とは全く正反対の生き方をしなければなりません。すなわちそれは「聖者」として生きる教えなのです。したがってブッダは初め、人々には理解されないと考え、真理を説くことをためらいました。しかし結局ブッダは自らその意義を認め、真理を説くことを決意したのです。こうして仏教が起こりました。
それでは先ず、日本ではあまり読まれることがないインド(パーリ)語原典『律蔵』「大いなる章」に説かれる、およそ二千五百年前に実在したブッダの伝記をもとに、ブッダの本来の教えについて見てみることにしましょう。
ブッダの本来の教え
ウルヴェーラー村のネーランジャラー河の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを開かれたブッダ(シッダッタ:当時三十五歳)は、その後、自ら悟った至高の真理を説き明かすために、(ブッダガヤーから)約二百キロも離れたバーラーナシーにいる五人の修行者仲間のもとを訪れます。なぜなら、見識ある彼らなら理解できるのではないかとブッダは確信したからです。
彼らに対面したブッダは、初め彼らから苦行をやめてしまったことを詰問され非難されますが、その誤解をとくために「不死(転生の終結)」が得られたことを告げて、繰り返し次のように述べて説得を試みました。
教えられた通りに、そのように実践するならば、久しからずして、良家の男子らが、まさに正しく家を去り、出家修行者となった目的である至高のブラフマチャリヤ(梵行:特に性的禁欲を厳守する修行)の究極(静寂の境地)を、生きている間に自ら知り、明らかに悟り、体得して過ごせるであろう。
彼らはやっと説得に応じると、ブッダは先ず、その実践の核心に
ついて彼らに次のように説き明かしました。
ビク(修行者)たちよ。出家修行者が実践してはならない二つの極端がある。二つとは何か。一つは、(情欲などの)もろもろの欲望において、欲望の快楽の生活に耽ることであり、(それは)卑しく下品で凡俗の行いであって、聖者の行いではなく、無益無意味である。もう一つは、自らを疲弊させることであり、(それは)苦しみであって、聖者の行いではなく、無益無意味である。
ビクたちよ。如来(私)は実にこれら両極端に近づかない「中道(中間の方法)」を悟ったのである。
そして、聖者の尊き八項目より成る実践方法を述べ(*重複を避けるために、ここでは省略します)、さらに真理の全貌をまとめて説き明かしました。それが「四聖諦(苦・集・滅・道:四ヵ条の、聖者の尊き真理)」と呼ばれる教えです。
ビクたちよ。実にこれが「苦しみ」という聖者の尊き真理である。生まれることも苦しみであり、老いることも苦しみであり、病にかかることも苦しみであり、死も苦しみである。嫌いな人と接するのも苦しみであり、好きな人と別れるのも苦しみであり、欲するものを得ないことも苦しみである。要約すれば、五つのカンダ(蘊:人間を肉体とその認知機能の集合体として構成されている存在と考える身体論)に囚われることが苦しみなのである。
ビクたちよ。実にこれが「苦しみが起こる原因」という聖者の尊き真理である。転生(輪廻)をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに快楽を求め満たそうとする、このタンハー(渇愛:喉の渇きに譬えられる欲動。人間を行動に駆り立てる内在的な力。)である。それはすなわち性愛の欲動、生存の欲動、死の欲動である。
ビクたちよ。実にこれが「苦しみの止滅」という聖者の尊き真理である。それはまさにそのタンハーを、貪りを離れて残らず止滅し、捨て去り、放棄し、解脱して、(欲望の対象を全く)寄せ付けないことである。
ビクたちよ。実にこれが「苦しみの止滅に至る方法」という聖者の尊き真理である。これこそ聖者の尊き八項目より成る実践方法である。すなわち、(中道に則った、タンハーの止滅に導くブラフマチャリヤ)見解、意志、言葉、業の終極、生計、勤行、記憶、瞑想である。
このブッダの教えを聞いた彼らは順次、速やかに納得し、改めてブッダのもとで出家し弟子として入門したいことを願い出ます。すると、ブッダは次のように述べて弟子入りを許可しました。
来たれビクよ。法は善く説き明かされた。正しく苦しみを終わらせるために、ブラフマチャリヤを実践せよ。
この「弟子入りの許可」のことを、「受戒」または「具足戒」といいます。(因みに、現在お葬式で在家の死者に対し、出家した証として授ける名のことを「戒名」と呼ぶのは、このことに由来しています。)
さらに、八項目の最初の「見解」の実践方法として、先の四聖諦の最初の「苦しみ」という聖者の尊き真理の要約(上位の概念)として出てくる「五つのカンダ(蘊:色=肉体・受=感受作用・想=表象作用・行=意志作用・識=認識作用)」について、そのいずれも「アッタ(真実の自己)ではない:非我」と見るべきことをブッダは説き明かします。ここで大切なことは、ブッダは「アッタ(真実の自己)がない:無我」とは説いていないということです。しかも以下の文脈からは、「アッタ(真実の自己)」とは思いどおりになる自己であり、常住不変であることが理解できるのです。
ビクたちよ。色(肉体)はアッタ(Skt.アートマン、真実の自己)ではない。もしもこの肉体が真実の自己であるなら、この肉体が患うことはないであろう。また、肉体について「私の肉体はこのようであれ」「私の肉体はこのようにあるな」となし得るであるう。しかし、肉体は真実の自己ではないから、「私の肉体はこのようであれ」「私の肉体はこのようにあるな」となし得ないのである。(以下、受・想・行・識について同様に繰り返される)
ビクたちよ。きみたちはどう考えるか。色(肉体)は常住(不変)であるか、あるいは無常であるか。「無常であります。尊者よ。」では、無常であるものは苦であるか、あるいは楽であるか。「苦であります。尊者よ。」では、無常であり苦であって変化し壊れる存在について「これは私のものである」「これは私である」「これは私のアッタ(真実の自己)である」と見ることは正しいだろうか。「そうではありません。尊者よ。」(以下、先と同様に繰り返される)
それゆえビクたちよ。この世において、何であれ色(肉体)であるものは、過去・未来・現在であろうと、内部であろうと外部であろうと、巨大であろうと微細であろうと、劣っていようと優れていようと、遠くにあろうと近くにあろうと、すべての肉体は「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私のアッタ(真実の自己)ではない」と、このようにこの(肉体)が、ありのままに正しい智慧(パンニャー)によって見られるべきである。(以下、先と同様に繰り返される)
ビクたちよ。このように見ながら、教えを聞いた聖者たる弟子は色(肉体)について厭い、受、想、行、識について厭う。厭いつつ、貪りを離れ、貪りを離れて解脱する。解脱において「私は解脱している」という自覚が生じ、「生まれは尽きた。ブラフマチャリヤは達成された。なすべきことはなされた。さらにこの状態にいたることはない」と知るのである。
原文だけでは少々分かりにくいと思われるので、補足しますと、「五つのカンダ」とは、人間を分析して、五つの構成要素に分解した身体論をあらわす術語で、認知機能を有するいわば客体としての肉体とその肉体の主である「私(自己)」とが相互関連的に一体(同一)となって、「私」という個を保っている存在と見る考えです。したがって肉体を通じて「私」にもたらされる、あらゆる情報に「私」が興味を持ち囚われてしまうために「苦しみ」がおこることになるのです。ですから意志的に、認知される情報に「私」が無関心でいることができれば「苦しみ」はおこらないことになります。
結論として、自己の肉体ですら、「私」が「私のものJとか「私である」と意識し思い込んでいるだけで、現実には「私」であるにもかかわらず「私」の自由にならないという矛盾した「私」と常に対峙(向き合う)しなければならないという事態が、ありのままの「私」であり、そういう「私」から解放されるためには、「これは私のアッタ(真実の自己)ではない」と否定して自らに言い聞かせ、「私」を苦悩へと導き、束縛している「私」の無意識のなかに潜むタンハーを意識化して、強い意志をもって止滅し、私のアッタ(真実の自己)に目覚めなければならないというのがブッダの本来の教えであるといえるのです。
しかし世間の人々にとっては、ブッダが教えるように出家をして生涯、聖者として生きる道を歩めといわれても、そうたやすく受け入れられることではありませんから、実際はブッダの在家信者となって聖者たちの生活のサポートをするというかたちで功徳を積み、自己の来世に望みを託すという以外に道はありませんでした。
弟子たちによる仏教の新展開
ところがブッダ(八十歳)の滅後その弟子たちの中で、出家をせずにブッダの教えに適った生き方はできないものか、と思索する者たちがあらわれました。かれらの発想はブッダと成ったシッダッタを全人格的に見直した上で、改めて仮説を立ててそれを論証しようと試みたのです。その仮説とは、現在では当たり前のようにいわれる「成仏」すなわちシッダッタと同じようにブッダに成ることでした。
ブッダに成る以前のシッダッタを、ボーディサッタ(菩薩:求道者)と呼び、彼の前世をジャータカ(本生)と呼んでいますが、この二つの要素こそブッダに成るために必要不可欠な根本条件であるとその弟子たちは考えたのです。このような解釈によって出家をしなくても、在家のボーディサッタとして生きる道が新たに開かれることになりました。そして、いわばその先駆けとして著されたのが般若経典です。「般若(パンニャー:智慧)」という言葉は、先程の原典にもあるようにブッダも用いていましたが、その「般若」から「般若ハラミツ(Skt.プラジュニャーパーラミター)」という新しい術語をつくりだしました。ふつう「智慧の完成」と翻訳されてしまいますが、むしろ「知を極めた状態」と翻訳したほうが解り易いかと思います。実はこの「知を極めた状態」とはブッダの「悟り」そのものを表わす術語「明(明知:Skt.ヴィドャー)」を言い換えた言葉なのです。しかし、この「明」という表現を用いる限り、当然のことながら、その反対の意味の「迷い」を表わす術語「無明(Skt.アヴィドャー)」と厳然と区別されなければなりません。ちょっと不思議に思われるかもしれませんが、実はこの「明」と「無明」は本来、同じものの違った事態を意味しているのです。なぜなら「無明」が「明」に変化した時を「解脱」と呼ぶのですから。
ではその「知を極めた状態」ではこのたった一つの世界はどのように見えてくるのでしょうか。
般若心経
それでは日本人の多くに知られ、唱え、書写されて親しまれている『般若心経』に説き明かされる教えについて見てみることにしましょう。
【中国の玄奘三蔵(7C)の漢訳からの日本語読み下し】
観自在菩薩は、深き般若ハラミタを行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見して、*一切の苦厄を度したまへり。
舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受想行識もまたまた是の如し。
舎利子よ、是の諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
是の故に空の中には、
色もなく、受想行識もなく。
眼耳鼻舌身意もなく。
色声香味触法もなく。
眼界もなく、乃至意識界もなし。
無明もなく、また無明が尽きることもなく、乃至、
老死もなく、また老死が尽きることもなく、
苦集滅道もなし。
智もなく、また得もなく、所得もなきことを以ての故なり。
菩提サッタは、般若ハラミタに依るが故に、
心に、けい礙なく、けい礙なき故に、恐怖あることなく、
一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟せり。
三世の諸仏は、般若ハラミタに依るが故に、阿耨多羅三貘三菩提を得たまへり。
故に知るべし。
般若ハラミタは是れ大神咒なり。是れ大明咒なり。是れ無上咒なり。是れ無等等咒なり。
よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざる故なり。
般若ハラミタの咒を説かん。即ち咒を説いて曰く。
ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、
ハラソーギャーテー、ボージー、ソワカ。 般若心経
(*下線の部分は原典にない)
さて、『般若心経』の正式なタイトルは『般若波羅蜜多心経』で一般には「智慧の完成の心髄」などと訳されています。インド語(サンスクリット語)原典を見ますと「心」の原語は「Skt.フリダヤ:心臓、核」で、「般若ハラミツ(知を極めた状態)」が最も大切な教えであることを意味しています。
この経典には二人の人物の名が登場します。一人は「知を極めた状態」を説き明かす観音様(=観自在)で、ボーディサッタですから在家であってビク(出家者)ではありません。もう一人はブッダの十大弟子の一人「智慧第一」で名高いビク・舎利子(Skt.シャーリプトラ:通称、シャーリ[母の名]の子)で、ここではただ黙って聞いている聞き手にしかすぎません。尚、広本では序文にブッダが登場しますが、深い瞑想状態に入り黙して語ることなく、結文で観音様に微笑みながら「よしよし」とただ賛辞を述べるだけです。人物設定にしても、ブッダがいらっしゃるのに何も語らないというのもかなり意図的で、普通に考えると不思議な光景です。それもそのはず、その内容は、これまでブッダ自身が弟子たちに説き明かしたものを、まるですべて否定しているような表現に満ちていて、明らかに違っているのです。
少し専門的で難しくなってしまいますが、玄奘さんは「五蘊は皆空なり」と翻訳していますが、実は原典を見ますと、この構文全体がとても異様で、しかも「空」ではなく「スヴァバーバ:自性、実体」という語が前に入った複合語なのです。たぶん玄奘さんも「何だか変な構文だなぁ」と思いながらも、これまでのブッダの教えどおりに翻訳してしまったと想像されるのです。このような謎めいた構文を理解するためには、およそ何かが省略されているに違いないと見るべきで、私は「五蘊は(空である)。しかしながら、(知を極めた状態から見れば)それらは空の実体でもある。」と括弧で内容を補って翻訳し読むべきものと考えます。
「空(Skt.シューニャ)」とは「生じたり、滅したり」して、変化し無常で虚ろな「現象」を意味します。ですから玄奘さんはその後も「色は空に異ならず」と翻訳しています。しかし原文では「空性(Skt.シューニャター)」となっているので、本当は、「色は空性に異ならず」と翻訳しなければなりません。「空性」とは先の「空の自性」のこと、つまりその後に説き明かされる「不生にして、不滅」なる、常住不変で永遠の実体である「実在」を意味していると考えるべきです。
つまり、五蘊は「生じたり、滅したり」しているように見えても、
「般若ハラミツ(知を極めた状態)」から見ると、その実体は「不生にして不滅」であることを説き明かすために、「異ならず」とか「即ち」という表現を用いて「人間あるいは世界の真実のありさま」を推論型式的に論じているのです。
易しくいえば、私たちは世界が「生じたり滅したり」していると思い込んで、喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしているけれども、「般若ハラミツ(知を極めた状態)」から世界を眺めている観音様にとっては、同じ世界が「不生にして不滅」なる永遠に安らかな悟りの世界として見えていることになるのです。
このように見る側の世界観の違いから、物事が全く違って見えてしまうということが、観音様がおっしゃりたいことの一つなのです。
要するに「ああでもない。こうでもない。」とか「ああしたほうがいい。こうしたほうがいい。」と囚われ、考え過ぎているうちは、その思考の檻の中で、もがき苦しまなければなりません。しかし、それらすべてを自分で抱え込まずに、だれかに委ねてしまえば、そこから自己が解放されることになるのです。ではいったいだれに委ねれば良いのでしょうか。普通ならば、親友とか然るべき人に相談するところですが、その委ねる相手こそ「般若ハラミツ」なのです。
祈りの真言
実は「般若ハラミツ(知を極めた状態)」とは言語学上、女性・単数で表わされる、ブッダを産んだ母なる実在者(女神)の名でもあり、しかも私たちは皆その同じ母の子でもあるのです。ですから、子が母にすがるように、その母に自己のすべてを委ね、救いを求めるべきことを最後に説き明かします。その救いを求めるための霊妙な祈りの言葉が「咒(Skt.マントラ:真言)」です。
結局、女神たる「般若ハラミツ」に対して「どうか苦悩からお救い下さいますように」と「咒」をだたひたすら唱え、信じて祈るべきことを観音様はおっしゃりたかったのです。