英語の「DESIGN」がカタカナの「デザイン」になって、いつの間にかデザインと言う日本語になった。今日、デザインと言えば子供でも知っている。誰でもデザインを知っている時代だ。企業はデザインを戦略に新しい力を獲得しようと試みる。販売の競争にデザインで勝負する。あらゆる局面でデザインが話題になり、人気デザイナーは超多忙な時代の花形だ。正にデザインの時代と言っても過言ではない。
では、いったいデザインとは何だろう。私はデザイン科の学生に質問してみたことがある。
「DESIGNという英語から来たカタカナ言葉を日本語で言ってみよう」ほとんどの学生が回答出来なかった。「デザインはデザインだろう」と居直る者までいた。では、「DESIGN」という英語が導入される前の日本にはデザインが無かった、のだろうか? そんなことはあり得ない。日本にはあらゆる面で素晴らしい世界に誇れるデザインが存在した。だが、概念としてデザインに相当する言葉は一般的には使われていなかった。工芸品などを中心に「意匠、装飾、文様」などといった表現しか無かった。
概念として「DESIGN」に相当する言葉は「設計」だが、残念ながら明治以降に建築や機械の分野に特化されて使われたに過ぎない。従って設計と言う言葉が実は「DESIGN」の対訳であることに気が付かないままに今日に至っている。
私は30年程前に北京で初めてデザインというカタカナ英語を自分の言葉で明快に理解する機会があった。北京で中国のグラフィックデザイナーと名刺交換をした。出された名刺には「平面設計士」とあった。今日では設計家と変わっているが、漢字(今では日本語化して同じ意味として理解できる)で見ると、カタカナには無い意味が明解に理解できる。カタカナは音のみの情報だから、分かったつもり、理解したつもりでいたけれど、日本語で言えないのでは本当に理解したことには成らない。だが、デザインが設計だと分かった途端に全てが氷解した。
2 「写真術」の発明が今日の情報社会の出発点。
A 情報の歴史
人類の歴史は600万年前とされている。だが実際には人間的と推測される物的証拠はせいぜい2〜3万年前の石器時代の洞窟壁画や石器などの道具でしかない。文化的な遺産としては7000年前以降の古代文明の遺跡などから推測するしか方法は無いのである。従って、情報の歴史を考えると、人類の歴史600万年の内597万年は全く情報がなく、599万3000年までは文明と言える程の情報が無いのである。つまりその空白の時間には情報を記録し蓄積して伝える手段が無かったのだ。
情報の歴史は文字の発明と供に始まった。中国の漢字、エジプトのヒエログリフ、メソポタミヤ文字、インダス文字などである。いずれも年代的にはおよそ紀元前5,6000年に発生し、徐々に文字体系として形成されたのが紀元前3000年と言える。従って文字の歴史は約5000から6000年の歴史である。ただし、情報と言える内容が残っているのは3000年前からと考えてよいだろう。人類の600万年の歴史のうち僅か2000分の1しか情報が無いのである。
私たちは、実は人類の歴史の大部分を全く知らないと言っても過言ではないのだ。情報社会と言われて鵜呑みにすると何でも知っている、何でも知ることが出来ると思いがちだが、現代人は人間の歴史を全く知らず、知っているつもりになっているだけである。
そこで、「想像力」が最大の力になる。僅かな手がかりだけであるがイマジネーションを発揮することで人類の歴史の空白部分を補い、より深く学び、現代の私たちの社会に役立てるべきではないだろうか。
B 情報はコミュニケーションの手段
人間は表現意欲を持った動物である。嬉しい時に笑い、喜び、悲しい時に泣く。声に出し、身体を使って全身でその感情を表現する。人間にはそのような感情を受け取り理解するセンサーが5つある。即ち五感と言われる、視覚(眼)、聴覚(耳)、味覚(口)、触覚(皮膚)、臭覚(鼻)である。或いは古代人には第六感と言われるもう一つの素晴らしい能力が備わっていた可能性が高い、と想像できる。いわゆる以心伝心であるが、たぶん私の想像では、むしろこの以心伝心がコミュニケーションの中心ではなかったかと思われる。まず、家族、仲間という少数の単位での意志の伝達は以心伝心でこと足りていたのではないか。やがて家族から村、村から村、そして社会へとコミュニケーションの範囲が拡大するに従って、以心伝心が効かなくなる。疑心暗鬼という恐怖や疑いが入ると途端に以心伝心の能力が無効になってしまう。共有できる普遍的なコミュニケーションの手段が必要になってくる。その必要性がコミュニケーションの原型の絵や記号を生み、やがて文字へと発展して行く。文字によって初めて人類は時空を超えた情報の伝達と蓄積が可能になった。
情報・コミュニケーションの歴史ダイジェスト/写真術の登場まで
① 600万年前
声・音・身振り、手振り、以心伝心による身体的霊的コミュニケーション
② 00万年?前
言葉の発生/物・者・などの名前、場所の名前・物・コト・現象の表現
感情を表す言葉、数などの概念の発生
③ 3万年前
絵による現実の平面情報化/記号化/文字の発生
④ 5000年前
文字の体系化と文章化/情報化/記録による情報の蓄積が始まる
⑤ 2000年前
絵画・彫刻・文章・楽譜・数字などによる歴史と文化の記録
⑥ 1000年前
印刷技術の発明/中国の石版、木版
500年前
活字印刷の発明/ドイツ・グーデンベルグ1450年/情報の増幅/情報の伝播
⑦ 174年前
最初の写真術の発明/J.Nニエブス/パリ/1836年
3 写真術の登場 とその後
19世紀中頃に写真術が登場した。人類の歴史の中で情報という視点に立ってみれば、正に画期的な出来事であった。それまでは書籍や新聞などのマスメディアは文字を中心として絵画によって記録された。ところが写真の登場によって世界は大きな変化の時代を迎える。人類の歴史で蓄積された膨大な情報の中で写真は最も記録性に富んでいる。写真の登場によってこの記録という行為は質、量共に飛躍的に爆発的に拡大されて行く。情報時代の始まりである。考えてみれば、写真もまた平面情報であるから、情報の歴史は平面情報(グラフィック)の歴史でもある。
A 写真術(静止画像)から映画(時間軸のある動画像)へ
やがて写真がアニメーションの原理(残像融合現象)と結びついて写真画像の連続になり、映画となる。そこに録音技術が加わって、現実のあらゆる物が情報として蓄積、伝播されて行く。映画は後にテレビへと展開され、マスメディアの中心的な役割を果たすようになる。
● ちなみに写真が平面情報であると同様、時間軸を持った映像も、実は、平面情報である。
映画/35ミリ/24コマ/Sec.
ビデオ/30コマ/Sec
B コンピュータの登場と情報のデジタル化
コンピュータは1940年頃に暗号文の解読のために開発され、以来70年間で今日のコンピュータ社会へと発展した。とりわけ1990年からの20年間の爆発的な様相は、情報と言う側面だけで見れば、人類が600万年かけて築いて来たコンピュータ以前の情報蓄積の質と量のを遥かに凌駕すると言っても過言ではないであろう。
コンピュータを支える基本的な概念は2つある。
1つは情報の平面化であり、他は現実(LIFE SIZE)の縮小・拡大の原理である。この2つの概念はグラフィック・デザイン(平面情報)の概念と全く同じである。従って、コンピュータによる情報社会を形成するデザインはグラフィック・デザインと言える。
4 縮小・拡大された情報は自然界に無い人工的なモノである。
従って、情報とは実にデザイン的である。
現実の時間は永遠の「現在」しか存在しない。過去の時間も未来の時間もどこを探しても見つからない。例えば何千年か前の文化史跡であってもそれ自体は現在形でしか見ることが出来ない。だから「過去」は情報の蓄積と人間のイマジネーションの中にしかない。「未来」もまた情報の予測と人間のイマジネーションの中に しか見ることが出来ない。現実の空間としての世界も、時の現在形と同じように原寸大の世界である。英語で言えば「LIFE SIZE」 である。縮小または拡大された概念や情報は現実の世界には存在していない。それは縮小または拡大された情報としての人工的な新たな現実なのである。それを通して現実をイメージすることが出来るが、ともすると情報が一人歩きしてしまい、現実と錯覚してしまうことも多い。
或いはまた、縮小・拡大の原理を使って全く現実世界に存在していないイメージさえ作り出してしまうことが出来るようになって来た。コンピュータグラフィックスはじめCGによる3次元アニメーションは現実にはあり得ないことまでも実にリアルに存在させてしまう。
現実的な世界の認識が余程しっかりと正常でない限り、コンピュータで創られたバーチャルな世界のイメージと現実の世界とが錯覚されて混同され、人間の精神にまで影響を与えてしまう危険性が出ていると言っても過言ではない。情報は実に人間的であると同時に危険性も孕んでいる。
情報の加工/平面化

5 世界をどのようにしたら正確に認識(イメージ)できるか、の一寸した実験
情報をデザインの視点で捉え直すことは世界をどのように認識(イメージ)するかに係っている。現在、世の中に存在している情報はそれをデザインした人の世界観が反映された物だ。その世界観が捩じれていたり、偏っていれば正確な情報とは言いがたい。だから、情報を鵜呑みにしては危険なのである。とは言え、何が正確で何が偏っているのかを判断するのは他の情報を頼りにしても結局は同じことになる。では、どうするか。
自分の眼で見ること、自分の経験を生かした視点でイメージすること、そして自分の心で感じることを信じて判断するしか方法はないだろう。
A 地球について考えてみる

図1) 10億分の1サイズの地球
地球の直径は12700 km で、この図の直径は12.7cm。線の太さは0.25mmだから、
およそ22000mに当たる。エベレストが8800m 、深海の深さは10000mだから、地球の凸凹は18000mで、この線の幅にほぼ軽く入ってしまう。また、空気の層は10000mだからおよそ線の半分の太さに過ぎない。シャボン玉の層よりも薄い。

図2-a) スペースシャトルの軌道
地表から320 kmの軌道は、この図で示せば3.6 mmである。地球にへばり付くように回っているのが実態。とても宇宙を回っているイメージではない。

図2-b ) スペースシャトルの軌道
上図を5倍に拡大した2億分の1の地球の一部分。地表から320 kmの軌道は、この図で示せば18mmである。部分的にすると地表から320 kmのイメージが少しは感じられるようになってくる。

図3) 125 周
地球の円周は約40000 km。4万kmは4000万メートル。
ひとりの人間が両手を広げた手の長さを平均して1メートルとすれば4000万人で地球を一周する。従って日本の人口を1億3000万人とすれば、日本人だけで地球を3周できる。地球の人口が約50億人とすれば全ての人が手をつないだら、なんと地球を125周もしてしまう。

図4) 23.5度の傾き
地球が太陽の周りを一年かけて一周する。その公転軌道に対して地球の自転軸は23. 5度傾いている。これが春、夏、秋、冬の四季の変化をもたらしてくれる。ここまでは教科書にあるから、フーンそうか、で終わりだが、その季節は北半球と南半球では逆さまなのだ。北半球に住んでいる人たちは、図3のSとNの表示を見て、直ぐに「逆さまだ」と言うだろう。でも、これは正しい。なぜなら、宇宙には上も下もないからである。最近の地球温暖化の問題も実はCO2の関係より地軸そのものがズレてきたという説の方が説得力を感じる。地球を限りなく大きいものだと安心して人間が勝手にやりたい放題をやって来たツケがそろそろ回って来たのかも知れない。実は、人間が考えているよりも地球はずーっと小さくて,繊細な天体なのだ。宇宙の微妙で絶妙なバランスの上に成立しているのだから、地球を過信してはいけない。
B 東洋と西洋
小学校の時に初めて世界地図を勉強した。同時に、世界には西洋と東洋が在ることも知った。日本は極東の島国であることも分かって少しイジケテしまった。ところが西洋の代表であるアメリカ人が、つまり西の国から極東の、つまり東の国日本に来る場合、一路西に向かってやってくるのである。おや、何か変だぞ、矛盾してないだろうか? とも思った。そこで先生にそのことを質問した。なんだか面倒くさそうな顔をして「そういうコトになっているのだから、そう憶えておきなさい」と応えた。素直な小学生であった私は「ふーん、そうか」と黙ったが、腑に落ちた訳ではなかった。大人になってもその疑問は冗談みたいに居座った。
初めてアメリカに行った時に、その長年のモヤモヤが一気に解決された。つまり、アメリカの地図を見れば一目瞭然だった。南北アメリカ大陸が西の外れにあって、ヨーロッパ、その下にアフリカ、中近東、アジア、インド、中国と続き、その下にニュージーランドとオーストラリアがあって、最後に、わが日本が東の外れにかろうじて顔を見せている。これを見ているアメリカ人やヨーロッパの人たちは日本を極東のFar East 小さな島国とイメージすることが容易に想像できる。西洋と東洋という概念は欧米の人たちが勝手に持っている偏見に近いイメージでしかない。そして、それは彼らが使っている地図の情報から来ているのだ。逆に言えば、私たち日本人の使っている地図のイメージはどう考えても日本が世界の中心的存在にしか見えない。
どこの国でも、一日に一回、西の国になったり東の国になったりする。日本の朝は東の国から見れば西の国になり、日本の夕方は西の国から見れば東の国になるのだ。もともと宇宙には東も西も無い。北や南も存在しない。世界地図では北が上で南が下になっている。これだって実は初めての世界地図が北半球で創られたという意外になんの根拠も無いのである。元来、宇宙には上も下も存在していないのだから。あくまでも、人間が創った相対的な位置関係なのだ。地図は自然ではなく人工のデザインである。21世紀には東洋だ西洋だといった思い込みよりも、もっと世界を平和的に認識(イメージ)する楽しい方法がデザインされるに違いない。

● ところで、日当り良好南向きは北半球の話で、南半球でいったいどうなっているのだろう?
では、「時計」は何故、右回りなのか?
解答/南半球では日当り良好「北向き」になる。北半球の常識が南半球では通用しない。
最初の器械 「時計」が発明されたのは北半球のヨーロッパであったから。北半球の日時計が右回りなのだ。
D 日本は小さな国?
日本は島国である。英国やニュージーランドと似ている。日本人なら誰でも知っているが、日常生活では島国に住んでいるという自覚が全くない。大島とか八丈島に住んでいる人たちならたぶん日常的に島暮らしを意識しているだろう。佐渡島とか淡路島くらいの大きな島になると忘れている時間が多いのではないか。、四国や九州の人たちが島という意識で生活しているだろうか。
では、何故「島国」が常識になっているのか。それは日本の地図を見て知っているからである。地図は実際の生活空間とかけ離れた縮尺で(1000万分の1とか)全体像を捉ているに過ぎない。
中国に行った時のことである。帰国前日に、「明日はJapan Island へお帰りですか?」と中国の友人に言われた。えっ、と思った。予想もしていなかった言葉に戸惑いを感じた。そしてその時に、たぶんアメリカ人もヨーロッパの人たちもジャパンアイランドと思っているに違いないと気がついた。確かに世界地図を見ると小さな島国にしか見えない。だが本当だろうか? 例えば海に囲まれているということを「プラス」と考えてみよう。「海の幸」に恵まれていることは食文化の豊かさに直結している。とすれば、海岸線の長さは豊かさのバロメータである。アメリカの海岸線の長さは約20000kmで、日本は34000kmである。だから遥かに長い。アメリカの国土の面積は日本の25倍で人口は約4倍である。比較にならないくらいの大きな国の海岸線の長さより日本のそれは圧倒的に長いのである。日本は本当に豊かな恵まれた国だ。ところがその自覚が全く無い。自分の本当の良さを見ずに「自己否定」しては、海の豊かさを生かすことは出来ない。
E 情報を正確にイメージする
現代のように情報が氾濫する社会ではよほど自分の視点をしっかりと持っていない限り情報に流される可能性が高い。或は、情報の渦の中で我を見失ってしまうだろう。情報を鵜呑みにする危険性を回避するにはどうすればよいのか。
まず、自分の眼で確かめ、自分の心で感じる事が大切である。知識や経験を総動員して出来る限り正確にイメージしてみる。出来うる限り偏見の無いニュートラルな視点で判断すれば、案外、本質は見えてくるものである。
● 宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」
日本人ならほとんどの人が知っているフレーズだ。1993 年に初めて賢治のふるさとの花巻を訪ねた。記念館を見学して小さな黒い革の手帳を見た。鉛筆の線も弱々しく書かれていた。展示されていた資料を読んだら死の3日前にベッドで書かれたものだという。果たして、そこからどんなイメージが立ち上がって来たのか。
● 人類初の月面着陸
1969年7月にアメリカのアポロ11号が世界初の月面着陸を果たした。月から送られてくる地球の丸ごと画像の美しさに息をのんだ。月面着陸の中継には人類の夢、偉大な科学の力に感激した。あれから40年(あ、何処かで聞いたフレーズだ)今ではアメリカの陰謀説や月面着陸のシーンはスタジオ撮影の捏造説がネット上で多く見られる。もちろん反論も多くあり。何が真実なのかは混沌として未だ不明である。真相は果たしてどうなのか、私はニュートラルな視点でイメージしてみた。すると・・・
6 捏造はダメだが、創造なら歓迎
情報をデザインの視点で捉え直すことは世界をどのように認識(イメージ)するかに係っている。現在、世の中に存在している情報はそれをデザインした人の世界観が反映された物だ。その世界観が捩じれていたり、偏っていれば正確な情報とは言いがたい。だから、情報を鵜呑みにしては危険なのである。とは言え、何が正確で何が偏っているのかを判断するのは他の情報を頼りにしても始まらない。結局は同じことになる。では、どうするか。
● 信号機を見直す
100年も前に始まった自動車の交通信号の方式は現在でもほとんど変わらずに続いている。この100年間でスピードも自動車の数も比較にならないほど変化した。だから道路の状況も100年前とは全く異なっている。新しい状況に応じて新しいシステムをデザインし直しても良いのではないだろうか。
● アラビア数字の形
漢字の数字やローマ数字は数の論理が形にデザインされている、と容易に推測できる。だが、アラビア数字は、いったいどのような数の論理が隠されているのだろうか? 一見しても何も見えてはこない。世界中で通用しているから何も不思議に思う人もいないけれど、数字は永い歴史の中で誕生しデザインされて来た物である。思いつきだけで形を決めた訳でもないだろう。

● 政治もデザイン
今の日本の政治をマクロ的にイメージしてみよう。複雑怪奇で捉えどころが無いのが実情で、そのしがらみの混沌の渦に、政治家たちは与野党おしなべて捕われてしまい、何一つ基本の原理原則から発想(イメージ)できなくなっている。マクロ的に見るということは、全体を縮小してみれば良い。複雑怪奇な物も縮小すれば細部は見えなくなる。逆に今の政治家たちは拡大して見ているのではないか。微に入り細に渡ってコネクリ回すだけで原理原則は何処か別の世界の話になっているようだ。一向に全体が見えてこない。「国家」を巨大な仕組みではなく、単純に「家庭」に置き換えてイメージしてみよう。政権交代が実現して、無駄を省く新しい流れが出来ると期待したけれど、基本的に何も変わっていない。霞ヶ関のエリート官僚たちは来年度の予算の概算要求として総額90兆円を超える額を提示した。税収が40兆円を切るということが明確に分かっている状況をきちんと認識しているとは、とても考えられない金額ではないか。これをマクロ的にイメージしてみる。年収が400万円を下回りそうで四苦八苦している働き手(国民)の家庭。優秀(?)な息子や娘たちがそれぞれ自分の都合で法外な小遣いを要求している。お金を取り仕切る奥さんまでも収入の少なさを自覚していないのだ。毎年のように年収を上回る借金をして、年に900万円がないとやって行けない、などと平気な顔をしている。しかも、借金を含めて総額900万円を一年で使い切ってしまうのだ。こんな家庭をイメージできますか?出来ません。成り立つ訳が無い。あり得ないのは誰でも分かる話ではないか。「家庭」という単位で成立しない経済が「国家」で成立するのだろうか、そんな魔法のような経済は国民を不幸にするだけである。国家のために国民がいる訳ではないだろう。国民のための国家なら、家庭でも通用する経済の常識を逸脱できない筈だ。
だが、現状では国家の主人である筈の国民が黙っている。文句も言わない。問題視しない。
政治にもデザインの思想を生かして、きちんとした設計が必要だ。
まとめ
人間が創ったものは、人間が変える事が出来る。
デザインの視点で世界の全てを見つめ直す。すると、世の中にはまだまだ変革できる事が多いことに気がつく。健康的に、合理的に、シンプルで美しく、過ごし易い社会をイメージしてみる。そして、デザインの視点で再構築すれば、そのイメージ通りに世界を変えられる。
デザインが人間の環境と社会を創るのだから、人間の創ったもので変えられないものは何も無い。戦争は何故いつまでも続くのだろう。何故、無くならないのだ。「平和」を理想主義と考えて、理想は実現しないものと諦めてはならない。「戦争」は自然現象ではない。人間の醜いエゴや自己中心的な思いやりの無さ、想像力の欠如、などなど人間の全ての悪が「戦争」の原因である。戦争の無い世界をイメージして、実現可能な「平和」を具体的なシステムとしてデザインすれば良いのだ。