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前回までの文祥堂フォーラムのご紹介
第276回 い:石橋を叩けば渡れない
     
〜父・西堀榮三郎の探検人生を西堀カルタで学ぶ〜
2008年9月17日

西堀 峯夫氏1

第276回文祥堂フォーラム1

西堀 峯夫氏2

第276回文祥堂フォーラム2


西堀カルタ




























 「石橋を叩けば渡れない」「出る杭は伸ばす」などユニークな言葉を残し多くの人に今も親しまれている父・西堀榮三郎は幼少の頃から山登りを通じて心身を鍛えるだけでなく常に現場に行き、五感を駆使して自然に接し多くの事を学び色々と探求してきました。

 11歳の時に白瀬矗南極探検隊の帰国報告を京都南座で見聞きして自分も南極探検の夢を持ち続け42年後、今から53年前に日本の第一次南極越冬を実現させています。又戦後日本人として初めてネパールに単身入国し国王からマナスル遠征の許可を取り付け、初登頂を果たす陰の功労者でもあり、70歳でネパール・ヒマラヤのヤルン・カン峰の5300mのべースキャンプまで酸素無しで登り隊員を激励する前代未聞の快挙も成し得ています。

 父は登山や探検ばかりでなく日本の品質管理を確立するなど、科学者としても功績を数多く残しています。冒頭の言葉の他に西堀カルタに表されている言葉の背景から、これからの若い人に人生を如何に楽しく生きるかを 父に代わってお話させて頂きたく存じます。
(西堀 峯夫)


西堀峯夫氏写真
PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・

西堀 峯夫氏 (にしぼり みねお)
MN Vacuum Technology GmbH 代表
ドイツ在住・理学博士

真空技術コンサルタント、26年間ドイツ在住
1943年 4月 西堀榮三郎の三男として東京に生まれる。
1956年11月 中学1年の時、父・榮三郎が南極観測隊副隊長で出発する。
翌年第一次南極越冬隊長として日本初の越冬を成し遂げる。
1972年 3月 学習院大学自然科学研究科理学部博士課程終了、世界初の「超微小硬度計の開発及び真空蒸着薄膜の硬度測定」をテーマに理学博士号授与される。その後1年3か月同大学理学部助手を務める。
1973年 7月 日本真空技術株式会社に勤務。現場の製品開発を多数手がける。
世界初で唯一の「宇宙空間の真空度測定用管球」の開発・製造・納入を一人で手掛け、NASAのスペース・ラボで使用される。
1982年 1月 同社のルクセンブルグ現地法人に技術担当役員として赴任する。
1982年11月 同社ドイツ技術センターの所長として移籍する。
1985年12月 欧州勤務を終了し帰国する。
1985年12月 ドイツに真空技術コンサルタント会社 MN Vacuum Technology GmbHを個人で設立し、現在に至る。

<職種内容>
真空技術の指導、真空装置の保守・点検、真空装置・技術の研究・開発、真空薄膜技術の指導、真空部品の製造・販売、真空装置・部品輸出入、真空技術の講演他

一般に真空技術を良く知らない会社でも真空装置を使用せねばならなくなってきている。真空装置を設置した後メーカーの技術者が取扱説明をするが、問題が起こった時の対応に差があり、時間が掛かる事はしばしば起こる。
この様な場合、日本では真空技術を専門とする技術者を雇用しても、真空技術以外の仕事もして貰う事が出来るが、欧州では 専門以外の仕事はしない場合が殆どである。
この様な場合、専門家を契約で一時的に雇用する方が経営的に有利であり、財務上も固定費ではなく、流動費で処理できる。従って真空技術の様な特殊な技術コンサルタント業務が欧州では成り立つ。
又、日本では派遣された技術者の所属会社の規模でその人なりを評価される場合があるが、欧州ではあくまでも技術者個人の能力と人柄で評価され、最後に会社の名前となる。従って私の様に一人の会社でも高い評価を受ける事が出来、長い間契約を結び採用される事になるが、ドジを踏めば一瞬に解約される危険もある。


<リンク>
西堀カルタの世界
西堀榮三郎記念「探検の殿堂」



■ 講演内容(講演レジュメより)

父・西堀榮三郎は明治三十六年一月(1903年)京都の錦小路に縮緬製造・販売の三男として生まれました。当時問屋を営んでいたので沢山の番頭さんや女中さんが働いており、母には五人の子供がいたので子育てに疲れ、最後の三男には全く手が回らず、ほったらかされていました。探究心旺盛な榮三郎は自由に伸び伸びと遣りたい放題をして育ったそうです。身体は小さく病弱でしたが武道を学び、如何したら痛くない転び方、投げられ方をすれば良いか研究したり、野山を駆け巡ったりしたそうです。

番頭さんが毎月愛宕山の頂上にある神社にお札を貰いに行くのですが、六歳の時嫌がる番頭さんに無理やり連れて行って貰ったのが登山の最初でした。初めは「何としんどいことか」と思ったそうですが、ある時いつもの番頭さんが別の用事でいけなくなり、初めての番頭さんと行く事になりました。この時初めての番頭さんに道筋や茶屋やお札の貰い方などを教え、大変喜ばれました。父はこの事で「人の役に立つ事が疲れも感じず、楽しい事か」を学びます。後に西堀カルタの
「ひ : 人に喜ばれることは善である」とか「か : 感謝がすべてのモチベーション」等の言葉を残しています。

十一歳の時に京都・南座で白瀬矗中尉の南極探検帰国報告会をみて、自分も南極行きの夢を見始めます。それから40数年後に実際に日本初の南極越冬を果たしました。カルタに
「わ : 若いときの夢はかなえられる」と言う言葉を残し、若い人々に「夢に向かって経験を積みなさい」と教えています。人生には多くの分かれ道があり、どちらに行くか迷った時に夢を持っているとそちらに向かう方に自然と導かれるものだと話していました。

中学になると後に義兄となる今西錦司らと本格的に山登りを始め、日本アルプスや白頭山(現北朝鮮)に遠征する事となります。これらの登山は殆どが初登頂を目指したものです。日本で初めて極地法と言う登山を実践し、後にヒマラヤや南極で実践していました。
有名な「雪山賛歌」もこの京都の山仲間と共に旧鹿沢で作詞しています。
この山行きで「ゐ : 異質の協力でチームワーク」「お : 思いもよらぬ事は起こると思え」などの言葉を残しています。
三高に入ってからは科学者を目指し見聞を広める為に南洋諸島一人旅にも挑戦したり、アインシュタイン夫妻の通訳として京都・奈良を案内して、「やって見る勇気を持つ事だ」と教えられ強く影響を受け
「ゆ : 勇気を持って挑戦を」と多くの事に学んでいます。

錆びて使えなくなったオートバイを教本なしで修理し日本の暴走族のはしりだったそうです。この様に学校や本から得られる「知識」は直ぐに役に立たないが、一度体験・経験する事で「生きた知識」となり、問題が起こった時に「知恵」となって湧き出て危機を脱する事ができる
「た : 体験で生きた知識を」と説いています。

その後三高から京都帝国大学化学科に進み理学博士となり、講師を暫く務めます。然しどうしても現場で人に役に立つ科学者でなく技術者になろうと東京電気工業(現東芝)に入社し大量生産できる真空管「そら」の開発を日本で始めて手掛け成し遂げます。この仕事から品質管理の意味と重要性を知り、その後本格的に勉強し日本独自の品質管理を確立し全国に広める活動をしてきました。この功績に対し品質管理の権威デミング博士よりデミング個人賞を授与され、更なる活躍をします。

この会社勤めの間も多くの登山をしており、数多くの業績を残しています。
当時国交がなかったネパールにマナスルの登山許可を貰う為に単身入国し国王から許可をいただきました、この時に京都大学学士山岳会から「マナスル登山の許可を取り付けよ」と目的のみ言い渡され、父は可能な限りの知恵を絞って国交のないネパールに入国し国王に直接謁見しその場で許可を貰ってきます。西堀カルタの
「も : 目的は絶対、手段は自由」「に : 忍術でもええで」と言っています。これは会社でも家庭でも使われる良い言葉です。

戦後暫くして会社を辞め、忙しく日本中の会社に品質管理の指導をしている時、昭和31年に南極観測隊副隊長に任命され少年時代の夢が実現する事となります。父榮三郎は当初国の方針で初年度の越冬はしない、又カラフト犬などは時代遅れで連れて行かない、小型飛行機を持って行くなど予算の都合で無理と言われても 知恵を絞って絶対に必要だと説き伏せ日本初の南極越冬を又越冬中に樺太犬が大活躍させ、両方とも実現させています。昭和基地候補が短期間で決定したのも小型飛行機の度重なる空からの偵察により敢行されたのです。

榮三郎は自身の探検人生の集大成として南極で越冬し経験したことから 「未知への挑戦」を始める前から予算だとか遣り方だとか儲けだとか先の事をあれこれ論じていては何も始まらないし最悪辞めてしまう事もある。そこで「
: 石橋をたたけば渡れない」「 : みんなでやろう前向きに」「 : なんでもやろうパイオニア精神」「 : 思いもよらぬことは起こると思え」「 : おのれだけでは何もできない」など多くの西堀語録として残しています。その一部が「西堀カルタ」になっています。

南極から帰った父は直ぐに日本原子力研究所の理事、更に日本原子力船開発事業団の理事を務めました。その後も亡くなるまで後進の指導の為、新製品開発教室やあらゆる分野で講演・指導しており 会社に於ける上司と部下のあり方や開発の心得、学校での先生と生徒の関係、家庭内の問題などにカルタになった西堀語録を使って分かりやすく説明しています。 以下に西堀カルタの残り部分を記しておきます。

: ロジックとノンロジックの組み合わせ」「 : ポジティブ・フィードバックで調子にのせよ」「 : 平常心会社を守り身を守る」「 : 統計方法で事実をつかめ」「 : チャンスを与えよ良い部下に」「 : リーチングアウトの精神で行動する」「 : 抜け駆けの功名では困難は乗り切れない」「 : ルールは自主能力で変わるもの」「 : 良い品質は作る人間の込めた魂」「 : 向上心があれば厭きることがない」「 : 出る杭はのばせ」「 :ああ、そりゃいい考えだ」「 : 境を作る専門馬鹿」「 : 競争でなく競走を」「 : 迷信は早とちりから生まれる」「 : 人生は実験なり」「 : 絵だけの管理は困りもの」「 :責任は事の起こる前に負うもの」「 : すなおに事実にもとづいて」「 :レボリューションをやった日本のQC」「 : 創造で会社の繁栄、自分の生きがい」「 : つまらぬことにこだわるな」「 : ねらいの品質トップが決める」「 : ラインもスタッフも心を合わせて目的達成」「 : 虫の知らせが聞こえるまでに」「 : 上役よ幅役になれ」「 : 能力は変えられる」「 : 苦のあとの成功」「 : やらされていると思わずやっていると思え」「 : まず褒めよ」「 : 欠点を長所に替えて育てよう」「 : 不良品の山は宝の山」「 : 「ん」まで結論しっかりと」とカルタの纏められ、実際に日々使っていくと必ずや効果が出て会社でも学校でも家庭でも改善が見られると信じています。

父・榮三郎は幼少の頃から常に現場に自分の足を行き手で触って全ての五感で確かめ、生きた知識で考える事を亡くなるまで続けました、子供には是非心掛けて欲しいと思います。

私は生まれてから一度も父からも母からも勉強しろとか、進学に就いて言われた事がありません。しかし父は書斎を持っていなかったのでいつも皆が集まる居間や炬燵で勉強していたので我々子供達もその姿を見て自然に勉強していた様に思います。又機械いじりは家族みんなでワイワイ騒ぎながら遣りました、これが父の教育方針であったと思います。

私が大学入試に失敗し本命でない大学のみ受かりましたが、父に「浪人したい」と言ったところ父は「頼むから浪人しないでくれ」と強く言われました。 父が初めて私に学業に関して頼んできた事に大変驚き、不本意ではありましたが、その大学に進む事にしました。

その後大学院に進み博士号を取得しに報いる事が出来ました。更に私は起業したい旨父に相談しましたが、父は「そりゃ ええ考えやなぁ。しかし お前は社会をよう知らんから、一度会社で経験を積んでからでもええのと違うか ?」といわれ、会社に入り十年程してから欧州に赴任する機会に恵まれ、四年後に念願の独立を果たしました。この時父は大変喜んでくれた顔は忘れられません。色々と相談した時には西堀カルタにある教えを話してくれ私も実際に経験し西堀語録の素晴らしさを痛感しています。

父が70歳になった時 長年申請していたヒマラヤのヤルン・カン峰の登山許可が下り、遠征隊長として5.300 m のベースキャンプまで無酸素で登り、初登頂を成功させています。この遠征でも初めて太陽光発電パネルをキャンプに運び上げアマチュア無線をしており、気象など受信し登頂に寄与しました。

丁度その頃日本では父と兄弟で手作りのヨットを製作しており、名前を「ヤルン・カン号」としました。このヨットで地球縦回りをする事が父の最後の夢でしたが、実現させる事なく遠い他界に旅立ちました。
私は父の遺志をついで、死ぬまでに実現させたいと思い、夢を膨らませ新しいヨットの設計をしたり模型を作ったりしています。毎日が充実し楽しいですヨ。




写真提供:銀座のタウン紙ギンザタイムス10月1日(第1380号)より

9月17日(水)第276回文祥堂フォーラムが文祥堂イベントホールにて開催。
『い:石橋を叩けば渡れない』〜父・西堀榮三郎の探検人生を西堀カルタで学ぶ〜というテーマで西堀峯夫・理学博士(写真中央)が講演。写真右;佐藤克夫・文祥堂会長、写真左:司会・進行の市島正之・文祥堂広報担当参与。

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