はじめまして、中西繁と申します。僕は東京神田の生まれで江戸っ子3代目になります。江戸時代のルーツは伊勢神宮の神官でした。祖父は本所で、伊勢屋という鉄問屋をしていました。祖母は関東大震災で被覆廠に逃げて焼け死にました。当時小学生の父は偶然、巣鴨の親類の家に行っていて助かりました。6人兄弟の5男。血液型はAB型。乙女座です。
まず、昨年山形で開催しました僕の展覧会の模様から見ていただきます。
(山形放送TV 映像)
もともとは建築家でありました。95年の阪神大震災で雑誌社からの依頼で2週間後ぐらいに神戸に取材に行きました。悲惨でした。「瓦礫の街・陽はまた昇る」という作品を描きました。雑誌の表紙を飾って、そこから廃墟の絵を描き始めました。その4月、軍艦島に渡り「棄てられた島」シリーズ。東京湾岸の埋立地の開発の絵「漂流都市」シリーズ。有楽町阪急のホールで展覧会開催。2000年5月にサラリーマンをやめ、絵描き一本になりました。さっそくイベリア半島に1か月の旅に出て、その帰りにサラエボ。ベオグラードに取材。翌年チェルノブイリ、アウシュビッツへの取材。2002年2月銀座で「棄てられた街」展開催。その後横浜レンガ倉庫、名古屋巡回展。パリへは2004年の秋から2年間の留学です。2006年に帰国して、現在は冬の2,3ヶ月をパリで制作しています。昨年、画商から独立しまして、「棄てられた街展」の全国巡回を進めております。
2. 本題
A「棄てられた街」展 作品から
銀座で「棄てられた街」という展覧会をやりました。その後、横浜赤レンガ倉庫のオープンの時に、赤レンガ倉庫を勧められまして、1号館の展示室全部を借りてやったのです。それを名古屋の方が見てくれて、名古屋に招待され、電気文化会館で2会場を借りてやりました。その延長で先ほどの山形展になったのです。
先ほど申し上げましたように、廃墟の絵を描くようになったきっかけは阪神大震災でした。
その年に軍艦島に渡りました。長崎の端島、炭鉱の街ですね。幅350M、長さ750Mの狭い島にピークには6000人が住んでいました。2001年の特選。DOCK、東京豊洲の石川島重工業の造船所。2005年日展特選。
- サラエボ
1986年冬季オリンピックの舞台です。旧ユーゴスラビアの分裂によって、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人が戦った。3年半で20万人が死に300万人が難民に。
- アウシュビッツ 28民族、150万人が殺される。

廃屋Ⅲ(サラエボ・ボスニア・ヘルツェゴビナ)
ここで私が訴えたいのは「戦争は絶対悪」ということです。平和が大事です。ニューヨークのグランドゼロにも行ってきました。9.11のあとユニオンスクェアーで最初に歌われた歌がジョン・レノンのイマジンです。これは、「夢を見てごらん、国境なんてないんだ」という歌です。この「国・国家」という概念が曲者なのです。戦争は、全く時の為政者・国家権力の都合で引き起こされるのです。犠牲になるのが弱き者、子供と女性です。国家・宗教・人種・民族の違いもさることながら親兄弟が敵味方に分かれて殺し合う悲劇、僕はサラエボで感じたことは「報復の連鎖」ということです。「仕返し」という人間のサガです。そこから僕は「報復はしない」とまず自分が決意すること、これが大事だと考えています。イラク・アフガン・パレスチナでは今でも報復の連鎖が続いています
B. モンマルトル「ゴッホの部屋」の日々
2004年の秋からパリに2年間留学しました。世界を旅しながら取材していましたが、フランスの日常生活にひたってみたかったのです。58歳からになっての留学です。その時の住まい兼アトリエがモンマルトルのゴッホが住んだ部屋でした。これは日本人の方が僕の留学先ということで買って、貸してくれたのです、条件として、僕は家賃のほか400号、2000万円分の絵を寄贈したのです。
パリでは国立美術学校のデッサン授業、アリアンス・フランセーズ語学学校通い。パリ中を歩き、プロバンス、ブルターニュ、ノルマンディー、オランダ、ベルギー、アメリカ・ニューヨークなど旅して制作しました。ゴッホの部屋ですからすぐにフランスゴッホ研究所のイサベルさんが訪ねて来て、代表のドミニク・ジャンセンとも友人になりました。
大勢の日本人の友人も訪ねて下さり夕食をご招待した方が170人でした。お茶だけの方が150人。
① ゴッホの部屋
フィンセントはオランダ生まれですが、ベルギーを経て、30歳の時1886年の3月、パリにやってきます。弟テオの所に居候するのですが3ヶ月後にこのルピック通り54番地の4階のアパートに引っ越します。
(部屋の写真 図面 窓からの風景)
ゴッホはパリで印象派の洗礼を受け、また日本の浮世絵の影響を受けます。パリ時代の作品。
② ゴッホの生まれたズンデルト
ベルギー国境に近い南オランダのズンデルト。市役所の真ん前に生家。父は牧師。父の勤めた教会。その横にある兄の墓。
1852年3月30日兄ヴィンセント生まれる。
フィンセント・ファン・ゴッホ
1852年生まれ
(ルカ伝 18章 16節)
幼児らの
我に来たるを
許して止むな
神の国は
かくのごとき者の国なり
③ アルル・サンレミ
1年半後の1888年2月19日、「日本のように明るいところへ」とアルルに向かいます。駅の近くの2階建ての部屋を借ります。ゴッホは画家の協同組合を作りたいと夢を抱く。弟テオに頼んでゴーガンを呼ぶのです。ゴーガンは10月23日やってきて一緒に住みます。いわゆる「黄色い家」と言われ、「寝室」という絵として残っている部屋がその時のアルルの部屋です。ゴーガンを迎える歓迎の絵が一連のひまわりの連作です。その家はその後第2次大戦で焼失しまして、現在はロータリーになっていて現存しません。
アルルでこの「夜のレストラン」「収穫」などの傑作を描きます。しかしゴッホとゴーガンはすぐに険悪な関係になります。ゴーガンが描いたゴッホの肖像「ひまわりを写生中のファン・ゴッホ」=ゴッホは「確かに僕だ。だけれども僕は馬鹿のろまとして・・・」と不満をぶつける。この間、二人は袋用の麻布のロールを手に入れ、それを切ってキャンバスにする。織り目の癖から、アルル時代の作品の制作順序が現代の研究で細かく判明しています。
12月23日、耳切り事件を起こし、自らアルルの精神病院に入院。病院の中庭を描いた絵。その翌年、89年5月、サン・レミの精神病院に転院します。病院の入口。印象派から象徴主義へと変化していく。「種まく人」「刈る人」「掘る人」シリーズ。「糸杉」「星月夜」。ニューヨークMOMAにある「星月夜」。11の星と月、うねった夜空。 教会が小さく、大きな糸杉。宗教から自然主義へ。エミール・ゾラ「ムレ神父の罪」(自然と宗教の葛藤=宗教のくびきからの解放)「そう、僕にとっては自然のなかの嵐、人生の中の悲しみこそ最上のものだ。パラドゥーは美しい。しかし、ゲッセマネはさらに美しい。」(書簡319)エミール・ゾラ「テレーズ・ラカン」(19世紀のパリを舞台に市井の人。人間の愛情と肉欲を描いたもの)自然主義とヒューマニズムへ。
これらプロバンス時代が1年半。
1890年5月18日、アルルからパリ経由、ピサロから紹介されたガシェ医師の診察を受けるためオーヴェル・シュール・オワーズに向かう。テオの子供フィンセントの誕生祝いにと「花咲くアーモンドの枝」を持参する。
④ オーヴェル・シュール・オワーズ
1890年の5月、テオの勧めで、ガシェ医師の診察を受けるためパリ北西40キロのオーヴェルに行きます。市役所前のラヴー亭というレストランの3階の屋根裏部屋に住むのです。ここはオーヴェルの市役所の真ん前。ゴッホはズンデルトの市役所の真ん前で生まれ、オーヴェルの市役所の真ん前で死ぬのです。オーヴェルの教会。コローの弟子ドービニーのアトリエ。「カラスのいる麦畑」
オーヴェルで70日間に70枚の油絵と数百点のデッサンを描いて自殺。7月29日没。37歳。ゴッホのポケットに入っていたテオへの最後の手紙「・・・君は僕を仲介として、どんな暴落にあってもびくともしないある絵の制作自体に自らが加わったのだ。・・・とまれ僕の絵に対して僕は命をかけ、僕の理性はそのために半ば壊れてしまった…それもよい…しかし君は僕が知る限りそこいらの画商ではない、君は現実に人間に対する愛をもって行動し、方針を決めうると僕は思うが、しかし君はどうしようというのか?」
⑤ ゴッホとゴーガンの比較
ゴッホは誠実で、貧しい人に救いの手を差し伸べた人でした。周りの人々をやさしく見つめる瞳を持っていました。
オルセー美術館 35室=ゴッホの部屋。
数ある画家の中でも大きな一部屋を用意されて展示されているのはゴッホだけなのです。ゴーギャンは小さい部屋で、ポンタヴェン派の首領という位置づけで展示されています。ゴーギャンは当時から画壇では有名な画家でしたが、偏屈で意地悪な人物です。1894年1月「静物」と題する論文で、ゴッホが壁になぐり書きしたという言葉をゴーガンが書いています。
「二人でアルルにいたとき、二人とも狂ったように、美しい色彩を求めて戦いを続けていたが・・・
Je suis sain d`Esprit (僕の精神は健やかだ)
Je suis Saint-Esprit (僕は聖霊だ)
・・・賢明なオランダ人である師たちの教えに逆らって、貧者を愛するイエスのような人の存在を信じていた。そして慈悲の心に満ちた彼の魂は、慰めの言葉と犠牲とを欲していた。弱き者たちのために強き者と戦うということ。まったくどう考えても、フィンセントはすでに気が狂っていた。」
ゴッホは生前1枚しか売れなかったように、ほとんど無名でしたが、清らかで、真摯な人物で、貧しい人々に暖かく接した人物でした。死んだ後にご承知のようにだんだん注目され、今日の世界的人気に到達したわけですが、これらは作品とともにその人物が共感を呼んだと私は思っています。
⑥ ゴッホの私語
1901年 ゴッホが死んで11年後、パリ・ベルネム・ジューヌ画廊で最初のゴッホ展
1910年 日本では「スバル」「白樺」で初めて紹介される
1913年 クレラ―・ミューラー美術館ハーグに開館(ゴッホ作品275点)
1914年 テオの妻ヨハンナ「ゴッホの手紙」を出版
1938年 オッテルローに、国立クレラ―・ミューラー美術館として再スタート
1951年 劇団民芸「炎の人」(滝沢修主演・新橋演舞場)初演
1956年 映画「炎の人」カーク・ダグラス主演
1958年 東京国立博物館「ゴッホ展」
1973年6月 アムステルダム・ファン・ゴッホ美術館開館
1976年 国立西洋美術館他「ゴッホ展」以後1985年、1995年、2005年
⑦ ゴッホの手紙
テオへ652通。公開されているゴッホの手紙はヨハンナの墨が入っている。アムステルダム・ゴッホ美術館が7年間かけて解読中。あと5年ぐらいで、すべての手紙が公開されるでしょう。
C. パリの美術館
パリは、世界で最も美術集積の密度が高い街といっていいでしょう。もしパリに初めて行かれる時には、もちろん自分の興味や関心に基いて選ぶことでいいのですが、やはりガイドブックに出ている順にご覧になることをお薦めします。ただ、今日はパリの代表的な美術館というより少し特殊な美術館を紹介しましょう。
① 国立ギメ東洋美術館
東洋美術を一同に集めた美術館です。一昨年、2005年の7月、ギメ美術館に東京の太田記念美術館から葛飾北斎・安藤広重などの浮世絵、肉筆画が企画展示されました。私は最終日に辛うじて観に行きました。その時に太田記念美術館の学芸員の方が気付いたと思うのですが、ギメ所蔵の葛飾北斎の肉筆画・龍図が、太田美術館所蔵の虎図と双幅であることが発見されたのです。それは大きさ・表装がまったく一緒であったことからわかったのです。そして2007年の1月、原宿の太田記念美術館にギメ所蔵の龍図がやってきて100年ぶりに龍虎そろって展示されたのです。
このギメ美術館には、ゴッホ終焉の地・オーヴェル・シュール・オワーズのガシェ医師の家を訪問した日本人画家の芳名帳が保管されてあります。ゴッホ研究所のイサベルさんと一緒にギメ美術館の資料室に閲覧に行ったのです。佐伯祐三がオーヴェルにブラマンクを訪ね、「アカデミック!」と批判されたことはあまりにも有名なことですが、その際、佐伯はガシェ医師宅を(息子さんの時代ですが)訪ねているのです。またゴッホと同じ構図で村役場や教会を描いたりしています。芳名帳は全て撮影しました。その中から佐伯祐三の署名などを紹介します。
1922.4.9里見勝蔵
1924.7.1佐伯祐三 1925.7.2 佐伯祐三
1925.10.5佐伯祐正(兄・その後ロンドンへ)
佐伯祐三は1926年3月帰国。
1927年8月8日モスクワ経由で9月再度パリ。翌年8月16日死亡。
② 国立クリュニー・中世美術館
サンミッシェル近く、メトロのクルュニー・ラ・ソルボンヌ駅のすぐ横に廃墟のような一角がありますが、これがローマ時代の共同浴場の遺跡なのです。この発掘跡と15世紀に造られたクリュニー修道院長館を一体的に活用したのが国立クリュニー・中世美術館です。フランス各地から集められた5世紀から15世紀にかけての美術品が展示されています。その中の一室に有名な「貴婦人と一角獣」の6枚組みのタペストリーが展示されています。
楕円形の部屋の正面に「視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚」の五感をテーマにした5枚。背後に「欲望」をテーマにした一枚が飾られているのですが、僕はまず、このタペストリーの赤の鮮やかさ、美しさに惹かれました。そして寓話的なテーマの不思議さ。円形の芝生の上に配された貴婦人・一角獣・ライオンなどの三角形の構図・余白空間の絵画的近代性に驚かされました。制作年は1490年ごろです。1800年代の半ばにジョルジュ・サンドが、フランス中部・ブサック城にあったこのタペストリーのことを当時の新聞連載小説「ジャンヌ」の中で書いたのが注目のきっかけになったのです。
宝石箱とネックレスが登場する A Mon Seul Desir(私の唯一の望みのため)と題された図柄の解釈に、僕は戸惑ったまま帰ってきました。これがそのタペストリーの写真です。ジョルジュ・サンドはこの場面を、婦人が宝石をはずしているところと捉え、「欲望を放棄することによって得られる自由」を婦人の「唯一の望み」と解釈したのです。
15世紀のタペストリーの多くが、戦争や宗教・貴族の家系や肖像をテーマにしている中で、この「貴婦人と一角獣」がその絵画的美しさはもとより寓意的・精神的主題をもっているところに多くの人々を惹きつけてきた秘密があると私は思っています。
③ オランジュリー美術館
パリに行かれた多くの方が行っても「まだ、改装中だった」と長い間観ることが出来なかったオランジュリーが7年間の長期にわたる改装を経て2006年5月にオープンしました。オランジュリーとの名前が付いているように、チェルリー公園の一角にあるこの建物は昔、王家のためにオレンジを栽培する温室だった建物です。クロード・モネの超大作・睡蓮8枚が楕円形の二つの部屋に展示されています。
私は初めてパリに行ったのが今から39年前、1970年ですが、その時オランジュリーの睡蓮を観たのですが、その時は上階の下に展示してありました。2階にその他の印象派の絵が飾られていました。実は、このモネ最晩年の大作睡蓮は、このオランジュリーに展示することを前提に描かれました。モネは建築家と綿密に打ち合わせながら楕円形の二つの展示室を設計し、その空間にあわせて連作の並べ方まで決めて、86歳で死ぬ直前まで描き続けたのです。
したがって当初はガラス屋根の自然採光のもとに展示されたのですが、ギョーム・コレクションと一緒になったとき上に2階が出来てしまったのです。それを、再度の大工事、地下の横に新しくコンクリートの展示空間を掘って、ギョーム・コレクションをそこに納め、二つの楕円形の展示室を自然採光のもとにしたのです。これはとても難工事だったと想像されます。ガラス屋根の下に大きな反射板を設け、更紗の天幕を張って、直射日光が一切差し込まずに、柔らかい光が真上から降りてくるというモネが当初に要求した条件に戻すことに7年間の歳月と莫大な費用をかけたわけです。
このように、不適切な改造は、やり直してでもベストの展示をする、というところにフランスの美術に対する徹底した考え方をうかがい知ることが出来ます。
④ ケ・ブランリ美術館
セーヌ河畔、エッフェル塔とオルセー美術館の間、ブランリ河岸という名前の地区に、新しく巨大な美術館が出来ました。この美術館は、西洋文明以外の、アフリカ・オセアニア・南北アメリカ・そしてアジアなどの民族文化・美術を一同に集めたもので、フランス国立人類博物館の収蔵品を引き継いだものです。「他者に視線を向ける」をコンセプトに、「あまりに永く不遇の時代にあった美術や文明の地位を回復したい」という願いのもとに東洋美術通で知られるジャック・シラク大統領の発議で出来た美術館です。財務省があった2万5千平米の敷地に建てられた延べ床面積4万平米の建築は、現代フランスで最も有名な建築家ジャン・ヌーヴェル氏の設計で、地上から浮かされた巨大な建物ですが、周りに植えられた高く伸びる樹が成長して建物は見えなくなるというコンセプトで設計されています。
終わりに
このように特にセーヌ川河畔に美術館が連なって出来てきたパリは文字通り世界NO.1の美術の集積と言っていいと思います。それらがひとつの魅力となって人口6000万人のフランスに年間7900万人の人々が訪れるわけです。これはもちろん世界第1位です。その後にスペイン、アメリカ、イタリアと続くのですが、日本は480万人。残念ながら世界33位です。日本人は年間2000万人も海外に行っていまして、これは世界第9位なのですが、なかなか日本には来てくれない。島国ということもありますが、日本の都市に魅力がないのだと思います。日本は木と紙の文化。変化に対応しやすい特徴がありますが、すべてがインスタントという欠点もある。都市景観は永い年月を考えて良くしなければなりません。
日本は印象派に大きな影響を与えた浮世絵の存在など優れた文化がありました。現代フランスでは、今や日本食ブーム。鮨、刺身、焼き鳥ブームです。中国人が経営する日本食レストランは3000軒。サムライ、ジュードー、カラテ、キモノ、禅、マンガ は良く知られた日本発のものです。新聞では「自爆テロ」をKAMIKAZEと書きます。これは名誉なことではありません。比較的日本人はフランスでは尊重される国民です。それは高い技術と独特な文化を持っているからです。日本女性の黒髪、細い目、きめ細かい肌はフランス男性からは凄く魅力的に映るようです。日本独自の文化を大事にすること、それがそのまま国際性を持ちます。
3. 今後の予定
2009年7月 福岡県立美術館「棄てられた街」in福岡
2009年9月 愛媛県美術館「棄てられた街」in松山
2010年9月 奈良県文化会館 平城遷都1300年記念「棄てられた街in奈良」
沖縄県立美術館(検討中)
毎年冬はパリ、モンパルナスのアトリエで制作
2014年 ニューヨーク国連本部展めざして