BUNSHODO
前回までの文祥堂フォーラムのご紹介
第294回 ソルフェリーノの夜明け
     
~アンリー・デュナンの生涯~
2010年3月17日
 作品を構想するためにデュナンのさまざまな資料を読むなかで感じたのは、「これは逃げるわけにはいかない」という思いでした。
 宝塚歌劇は、愛やロマン溢れる舞台でファンの皆さんの支持をいただいています。しかし今回は、デュナンが戦場で見たこと、感じたことを正面から描こうと腹をくくり、宝塚として新しい挑戦をしようと決断したのです。
 私は太平洋戦争中、空襲で神戸の実家を失い、疎開先の福井でも空襲にあいました。焼夷弾で焼かれた死体の臭い、それをスコップで片づけた体験。デュナンが見た戦場の様子がイメージされました。
 ソルフェリーノの丘での体験から彼がどのように赤十字思想を生み出したのか。
 この舞台の東京公演が、3月26日から東京宝塚劇場で幕を開けます。その前に、皆さんとお会い出来ます。舞台のこと、宝塚歌劇団のこともいろいろお話ししたいと思います。
(植田 紳爾)











































植田紳爾氏写真
PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

植田 紳爾 氏 (うえだ しんじ)
劇作・演出家 宝塚歌劇団理事・特別顧問
社団法人日本演劇協会会長
元宝塚歌劇団理事長(平成8年~16年)

昭和8年神戸生まれ。
早稲田大学卒。
昭和32年宝塚歌劇団に入団し、同年12月に「舞い込んだ神様」(宝塚新芸劇場)で演出家デビュー。
その後、次々と作品を発表し、「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」の脚本・演出で宝塚ブームを巻き起こした。
その他の代表作に、「我が愛は山の彼方に」「この恋は雲の涯まで」「夜明けの序曲」「紫禁城の落日」など。
宝塚歌劇以外でも作・演出を数多く手がけている。
著書に「植田紳爾脚本選」など。
受賞・受章歴は、平成2年兵庫県文化賞、平成5年松尾芸能演劇優秀賞、平成8年紫綬褒章、平成14年菊田一夫演劇特別賞受賞、平成16年旭日小綬章受章、平成17年大阪芸術賞。


■ 講演内容(講演資料より)

アンリ一・デュナンと宝塚

昨日のことよりも明日を語る大切さ

 宝塚歌劇団の植田でございます。本日はアンリー・デュナンと宝塚についてお話させて戴きたいと思います。
 ご承知のように昨年が世界赤十字思想創立150周年の記念の年として5年にわたり世界各国で記念行事が開催されております。その中に日本では宝塚がその思想の提唱者であるアンリ一・デュナンの生涯を舞台化することになり3月26日から4月25日まで東京宝塚劇場で公演致します。宝塚は赤十字 100周年のときにも『白き天使たちの歌』と云うレビューを上演しており宝塚と赤十字の不思議なご縁を感じております。
(宝塚の成り立ちなど)

 アンリ一・デュナンは1828年5月8日にスイスのジュネーブに生まれ、成人してのち銀行に勤めましたが、フランスの植民地であるアルジェリアで農業経営を始めます。しかし、なかなかその事業が軌道に乗らず、事業の支援を求め、北イタリアに遠征しているナポレオン 3世に直接陳情のためナポレオンを追いかけて行く途中でソルフェリーノの大戦に遭遇します。そこでの負傷者たちの救護活動を通して戦時救護体制の必要性を痛感、その時の体験を「ソルフェリーノの思い出」としてまとめたものを出版、その中で戦時救護の団体と条約作りを提唱しました。戦争の悲惨さを伝える描写は、世界の人々に衝撃を与え、同書はヨーロッパ各国で大ベストセラーになり、彼は一躍有名になります。
 やがて彼の願いと努力は赤十字とジュネーブ条約として実を結び、人道と平和を訴え続けたデュナンは、73歳のとき第1回ノーベル平和賞を受賞しました。
 しかし、その人生の大半は挫折と不遇続きでした。事業失敗による破産宣告でジュネーブを追放され、23年もヨーロッパを放浪し、 66歳のときにスイスの老人福祉病院に引き取られ、 16年をそこで過ごします。そして、そこで最後のときを迎えます。 1910年デュナン82歳のときでした。ですから今年はデュナン没後100年の記念の年でもあります。その身寄りのない介護生活の病院で73歳のときに第1回のノーベル平和賞を受賞しました。しかし、だからと云って華やかで栄光のある生活が訪れた訳でもなく、 9年後にその病院で最後のときを迎えたのです。そこにどんな葛藤や苦悩があったのか作家としてはそのあたりが創作意欲の湧く所で大変に興味のある所なのですが、今回は150周年記念の行事として没後100年にあたるアンリ一・デュナンの生涯の前半を舞台化したものです。
 この舞台となりますソルフェリーノの戦いとは、独立と統一を求めるイタリアで、1859年6月24日、ナポレオン3世の率いるフランス帝国とヴィトーリオ・エマヌエーレ2世が指揮するサルディニア王国との連合軍が、北イタリアを支配するフランツ・ヨーゼフが率いるオーストリア・ハンガリー帝国軍と激突。 19世紀最大級の激戦に連合軍が勝利して、イタリア統一にむけて戦局は一歩好転しますが、12時間もの間続いた戦闘は壮絶で、戦場となったソルフェリーノには1日で両軍から4万も死傷者が出ました。
 戦いの翌々日、隣接するカスティリオーネまでやって来たデュナンは、街路に放置された負傷者の悲惨な状態に衝撃を受け「目前の負傷者を敵味方の区別なく救おう」と町の人々に呼びかけ、不眠不休で救護に当たります。その体験が、デュナンの赤十字思想の土台となりました。本当に偶然戦場に近い街で次々と死傷者が運ばれて来るのを見て、この人達を救わなければと、 1週間飲まず食わずで救護にあたりました。まったくの素人でしたが、素人でもここまで頑張ったということが世界の人々の心を打ったのです。ヨーロッパではナポレオン戦争が1815年に終わってから44年間も戦争がなく、その間に戦いの様相は一変していました。兵器が進化して、たとえば大砲の威力が格段に増え、各国で徴兵制度が採用されて兵力が増え、産業革命により経済力や武器弾薬の生産力が高まり、その結果、戦争はますます大規模に、そして被害は悲惨なものになっていました。こうした、戦争の悲惨さを訴えることが平和を導くことになるというのがデュナンの考え方で、実際、この本は大きな反響と共感を呼び、多数の賛同の声がデュナンの所に寄せられました。
 しかし、そもそもデュナンは裕福な家に生まれた訳ではなく、天才でもありませんでした。成績も悪くて、中学を退学させれるような子供でした。銀行員になってからも喧嘩がもとで退職させられたし、実業家としても失敗しています。しかし、彼は現在の形になったばかりのちっぽけなスイスという国の人間でした。彼が生まれ育ったジュネーブは 1815年からスイスに編入されるのですが、もともと街道街で国際都市的な雰囲気のある街でした。 16世紀には宗教改革のカルヴァンが出た街ですし、 18世紀の思想家ジャン・ジャック・ルソーが生まれた街でもありました。ルソーは兵士たちが負傷したり、捕虜になれば普通の人間として扱わなければならないと考えていました。デュナンはそんなルソーの影響を受けていると思います。そういう下地があった所へソルフェリーノでの体験が契機となって「人間らしく扱われること」を求める人道の思想を奮い立たせたのだと考えます。
 今から 150年前のことですので様々な資料は残されておりますが、中でも吹浦忠正(フキウラ・タダマサ)氏が中央口論新書から出版されている「赤十字とアンリー・デュナン」が大変に分かりやすく纏められておりますので、それに沿ってデュナンの「ソルフェリーノの思い出」と宝塚の「ソルフェリーノの夜明け」について少しお話したいと思います。
 吹浦氏によりますと「ソルフェリーノの思い出」は 95%が戦場描写で、残酷な場面が次から次ぎへと出て来ます。ソルフェリーノの戦いと云うのはそれくらい激しいもので、今でも現地に行くと戦死者の遺骨だけで作った教会があるほどです。デュナンは戦いの模様を詳細に書きますが、それはふたつのことを訴えたいがためでした。ひとつは戦時救護するための組織を平時から作っておくべきこと。もうひとつはそういった救護が出来るようにするための条約を作っておくべきであるということでした。それが前者が赤十字となり、後者がジュネーブ条約という形で結実しました。しかし、 1日で 4万人もの死傷者が出たと云うことはいかに悲惨な現状であったか。日本でも広島・長崎の原爆被害が記録に残されておりますが惨い現状は我々の想像もつかない所だと思います。わたしもそれほどではありませんが爆撃の経験をしております。神戸の育ちなんですが戦争中福井に疎開致しました、そこで福井の大空襲に出会いました。激しい爆撃と延焼は一晩中続きました。真っ赤に燃え上がる紅蓮の炎で市内より遥かに離れていましたが見ることが出来ました。次の日から福井中学 1年生でしたが動員され、死傷者の処理にたずさわりました。うずたかく積みあげられた死傷者をスコップでトラックに乗せる作業でした。まったく酸化した死体や幼い子供を庇ったまま焼け死んだ死体、道のくぼみにはその人達の血がたまっていました。また、福井城のお掘りには逃げ場を求めて水死された人達が浮いていました。それにその死臭。そんな中の作業でしたが、 1台が一杯になると次のトラックが、それを何台も繰り返すうちに何処か神経が麻痔して来たのを覚えています。戦争とは正常な神経ではなくなることを幼いながら体験しました。これがわたしの戦争体験です。そんなことから想像してもその被害がいかに大きく悲惨なものであったか。
 アンリー・デュナンを描く「ソルフェリーノの思い出」は戦記です。悲惨な状況を克明に書かれているものです。それを避けては意味がありません。またそれを避けては赤十字思想の創造に説得力がありません。それだけに宝塚向きではなく、宝塚が扱う題材ではありません。わたしたちの宝塚は夢工房と云われる通り夢を作り、夢を提供し、お客様はその美しい夢を求めて劇場においでになるものです。悲惨な状況とはあまりにも乖離しています。赤十字誕生を描くなら避けられない事実と夢のある舞台。まして宝塚はエンターテイメントとしてお客様に楽しい夢を提供する所です。それが今回の一番悩む所であり難しい所でした。とにかく、これを解決しなければ仕事に取り掛かることは出来ません。そんな所から「宝塚は夢を作るところでエンターテイメントですデュナンの前半はフィクションとして書いてもいいでしょうか。それならばやれると思います」とご相談しました。「それはよく理解しますから、前半の部分はフィクションでお書き下さっても結構です」とのご返事を戴いて出発しました。先程も申し上げましたとおりたくさんの資料が残されています。それを調べているうちに自分の戦争体験などから「これは逃げてはいけない」と思うようになりました。宝塚はご承知のように年若い女性たちの集団です。それが原因しているのですが「宝塚だから出来ない」「宝塚だから無理だ」と云うことがあります。しかし、この仕事は宝塚だからと逃げていては出来ないと思うようになりました。「宝塚だから」と避けていてはいつまでたっても宝塚は宝塚でしかないのです。現在の演劇界の様相は30年前とは大きく変貌しております。いまの日本演劇界はミュージカル・ブームです。こんなことになるとは30年前に誰が想像したことでしょう。そんなミュージカル・ブームに宝塚は違った歴史を持っています。ミュージカルと云う名称が世界で生まれる前から宝塚は存在していました。それがミュージカル・ブームの一端を担った形になっているのですから、昔の意識は早く変革しなければならない時代に来ているのです。だからこそ、こんな時に宝塚だからと逃げることはならないと考えました。わたしは昔から逃げることが嫌いな性格で生きて釆ましたし、仕事をして釆ました。デュナンのものとはあまりにも次元は違いますが「風とともに去りぬ」のバトラーのひげ事件と云うのがあります。
(髭事件エピソード)
 そんなこともあったので考えを改めました。
 そして、資料を調べるうちに自分の反省を含めですが激しい憤りを感じました。人間はこの150年いったい何をしていたのか ?と云うことでした。
(自爆テロ・水害・地震・台風の地球環境危機などについて)
 現代の混沌とした状態は 150年前より良くなる所か悪くなっています。こんなことでいいのか。昨日のことを語ることは大切だが、明日を語ることはそれ以上に大切ではないでしょうか。過去を語るより未来を語りたい。150年前にアンリー・デュナンが提唱した赤十字思想とともにそれからの150年をこの「ソルフェリーノの夜明け」のテーマにしなければ現代のテーマにはならないと考え始めました。せっかく、 150年を記念して世界で行われる行事のひとつなのですから、現代の抱えている問題をテーマとして取り上げることが大切だと考えました。
 ただ吹浦氏の本によりますと、デュナンは戦争に人道的な制約を加えようとルールを求めましたが、戦争そのものには反対しなかったと書かれています。そこがただひたすら戦争に反対したトルストイとの違いです。トルストイは戦争になったら規則なんて無意味だと云い。これに対して戦争が起こったら徹底的に被害を少なくしなければならないと云うのがデュナンの考えです。つまり理想派と現実派との違いで、ロシアの名門貴族だったトルストイとスイスの破産した実業家デュナンの違いだと書かれています。ちなみに、トルストイとデュナンは同じ年 (1828)に生まれ同じ年 (1910)に亡くなっています。
 しかし、わたしは150年の反省として戦争反対の精神をこの「ソルフェリーノの夜明け」には盛り込みそれをテーマにしようと考えました。この150年のあいだに事情は大きく変わっております。自爆テロ・地震・水害・台風に対する世界的な支援。そんなことを考えるとデュナンの思想をもう一歩深めて書きたいと考えました。それにはわたし自身がいまから20年前、 1988年にトルストイの「戦争と平和」を世界で初めてミュージカル化した経験があったからです。
「戦争と平和」を舞台化する作業のなかでトルストイの頑強なまでの戦争反対の信念に心を打たれたからでした。どんなことがあっても戦争はいけない。誰が国を守り、家族を守るのだ!確かにこの議論を避けては通れないとは強く感じてはいますが、すこしばかりの戦争体験を通しても戦争という異常な世界で人間の異常さを知っている者としてトルストイの思想も盛り込んで観客に訴えたいと考えました。
 もし、現在デュナンが生きていてこの問題に遭遇していたら、きっと彼もそう提唱したことだと考えています。
 前にも申しましたようにこの「ソルフェリーノの思い出」は 95%が戦場描写でドラマとしての内容はありません。そんな訳で自分の体験や見聞をまじえながら舞台のエピソードを創作しました。その意味ではノンフィクションではなくフィクションだと申しても間違いありません。
 とにかく、デュナンの「ソルフェリーノの思い出」に触発され、それからの150年に我々の生きた問題として作り上げたのが宝塚の「ソルフェリーノの夜明け」です。どうかぜひご覧戴きたいとお願いして終わらせて戴きます。

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