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前回までの文祥堂フォーラムのご紹介
第298回 二大女優が語る “ 演劇の魅力 ”
   
~パリ祭に贈る夕~
2010年7月14日
 淡島千景さんは昭和16年(1941年)宝塚歌劇団に入団、以来、舞台はもちろん、映画で活躍、その黄金期を支えました。水谷八重子さんは昭和26年(1951年)新橋演舞場が初舞台、その後歌手としてデビュー。水谷良重時代からやがて、母上である初代水谷八重子を平成7年(1995年)に襲名しました。まさに、日本演劇界を代表する二大女優です。
 そのお二人が対談します。夢の顔合せが実現しました。
 司会は演劇評論界の第一人者、藤田洋氏。お二人をよく知る名司会者によって「演劇の魅力」が語られます。とっておきの秘話が聞かれるかもしれません。
 来る7月28日は5年に一度の『演劇人祭』が国立劇場で開催されます。朗読劇『華岡青州の妻』でお二人が共演します。今回はそれにさきがけて、日本演劇協会のご協力で素敵な一夜がもうけられたのです。
























淡島千景氏写真
PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・

淡島 千景 氏(あわしま ちかげ)
女優
東京都生まれ
1941年 宝塚歌劇団に入団
1950年 松竹に入り「てんやわんや」でデビュー
第1回ブルー・リボン女優賞を受賞
1956年 菊池寛賞受賞
1958年から続いた「駅前」シリーズでは24作中22作品で森繁久弥とコンビを組んだ。
1960年代後半からは「半七捕物帖」をはじめ、テレビ、舞台で活躍。
水谷八重子氏写真
PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・

水谷 八重子 氏(みずたに やえこ)
女優
東京都生まれ
1951年1月、新橋演舞場で初舞台。
1956年 歌手としてデビュー
東郷たまみ、朝丘雪路と七光会結成、水谷良重時代を過ごす。
1957年 映画「青い山脈」などに出演。
1960年 映画「花の吉原百人斬」に出演、のち舞台でも当たり役となる。
1963年ごろから舞台に専念、「深川不動」「佃の渡し」「滝の白糸」などで受賞多数。
1980年11月、名跡「水谷 八重子」を襲名する。
藤田洋氏写真
PROFILE ・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤田 洋 氏(ふじた ひろし)
演劇研究評論家
東京都生まれ
青山学院大学卒
日本演劇協会専務理事
菊田賞、芸術選奨文化大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章など受章。

二大女優(淡島千景、二代目水谷八重子)が語る“演劇の魅力”

 日本を代表する女優、淡島千景と水谷八重子のお二人に女優人生を語っていただきます。
 前時代の大女優杉村春子の演じた「華岡青洲の妻」を朗読劇として共演する感想。
 新派の大女優初代水谷八重子の病気休演のピンチヒッターに立った思い出(淡島)、母八重子の生前のエピソード(八重子)などを交えて、八重子ばかりでなく先輩女優たちの素顔を語っていただきたい。
 淡島氏は、戦中・戦後の宝塚時代、松竹の映画女優、東宝の「駅前シリーズ」、そして舞台女優時代の共演者(森繁久弥、長谷川一夫、松緑、幸四郎《白鴎》ら)の思い出。
 水谷氏は、東郷たまみ、朝丘雪路らの“七光会”、「花の吉原百人斬り」で映画は片岡千恵蔵、舞台は花柳章太郎と共演。新派に後半の人生の拠点を置く心境。
 そして二人の“女優”についての心構え、後進へのアドバイスもぜひ聞きたいところだと考えています。
 淡島氏は宝塚で歌やダンスの基礎訓練をうけている。水谷氏は歌手としてデビューしている。にも拘わらず、幼い頃から日本舞踊を習っている共通点があり、その和と洋の折り合いをどうつけているのだろうか。こうした数々の興味に対して、どのように答えてくださるのか。
(藤田 洋)

講演内容記事

<銀座タイムス・平成22 年9 月1 日(第1403 号)より>

7月14日(水)第298回文祥堂フォーラムが開催。「二大女優が語る“演劇の魅力”」というタイトルで二大女優のお二人が女優人生を楽しく語りました。写真中央右、淡島千景さん、中央左、二代目水谷八重子さん、写真左端は司会の演劇評論家・藤田洋氏、写真右、進行の市島正之・文祥堂広報担当参与。

<週刊ビューロウ・平成22 年7 月29 日(第2785 号)より>

 株式会社文祥堂(佐藤義則社長)は、14日午後6時から、東京・銀座の本社イベントホールで「第298回文祥堂フォーラム」を開催した。
 今回のテーマは「二大女優が語る演劇の魅力~パリ祭に贈る夕~」で、ゲストは淡島千景、水谷八重子さん、司会は演劇評論家の藤田洋さんを迎えた。
 淡島さんは、一九四一年宝塚歌劇団に入団し、第1回ブルーリボン女優賞を受賞し、一九五八年から続いた「駅前」シリーズでは二四作中二二作品で森繁久弥さんと共演した。
 水谷八重子さんは、一九五一年1月、新橋演舞場で初舞台、一九五六年に歌手デビューし、東郷たまみ、朝岡雪路さんらと七光会を結成、一九八〇年11月名跡「水谷八重子」を襲名した。
 はじめに司会の藤田さんが「淡島さんは、宝塚時代の同期に南悠子、久慈あさみさんらがいる。月組時代に三羽ガラスといわれていた。越路吹雪さんが上級生にあたる。
戦争中の宝塚劇場は使用できたが、戦後はGHPに世襲されてしまい、代わりに錦糸町の楽天地でお芝居をやっていた」と、述べた。
 続いて、淡島さんが松竹デビュー時のエピソードについて述べた。
 「当時は、大変な時代で舞台に出られることだけで幸せだった。昭和25年に映画界に進出し、松竹の社長、宣伝部長に芝居をみてもらい、カメラテストに受かり松竹の映画にでることになった。
 第1回ブルーリボン女優賞を受賞したが、当時は賞のありがたみがわからなかった。女優として経験を積んで賞の重みが理解できるようになった。
 たくさんの有名な俳優たちに会うことができたのも、松竹のみなさんのおかげである。
 駅前シリーズで共演した森繁久弥さんがいまでも元気だったら、一緒に仕事がしたいと思う。
 また、駅前シリーズの女優陣はおっとりと演技できたが、男性陣は面白く演技していた」
 続いて、水谷八重子さんが幼少期からデビューするまでのエピソードについて述べた。
 「6歳から稽古をはじめて歌の世界に出ていった。母が自分の手元に置きたくて稽古に出された。いまでも三味線が弾けないことを後悔している。稽古が嫌で辞めることばかり考えていた。
 松田トシ先生のもとに通い出して、母も心配してくれたが、声が変声期で変わりいまの声になった。
 声が変わってしまい、服部良一先生のところに通うことになった。
 服部先生に朝丘雪路(伊東深水の娘)さん、東郷たまみ(東郷青児の娘)さんらと「七光り三人娘」を結成するといわれて、三人まとめて売り出すことになった。
 また、舞台で華岡青洲の妻をやったときに、和歌山弁を勉強したが、江戸時代と現代では同じ和歌山弁で言葉の使い方が変化していることがわかった。
 中村橋之助さんが青洲役を演じた。
 そのときのメンバーが集まり朗読をやっている。
 もう一度、芝居でやりたいと思った。
 現代社会全体にいえることマニュアルだけではちゃんと覚えても意味がない。自ら判断して工夫することが出来ない。
 イメージを想像することが大事で、想像で感じるしかない。
 想像を豊かにするには、街中で人間観察をするといい。
 女優をやっていて経験して思ったことは、一つのことに専念するといい」
 続いて、藤田さんが健康管理法について質問した。
 淡島さんが「まず自分をしっかりつくり、自己管理や、自分の好きなことをやっていくことが大切で、適度の運動が大切である」と、述べて閉会した。

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